ヴァイオリンのウィザード Wizard− 語源的には“魔法使い”ですが、“名人”として一般的に使われる言葉でもあります− と呼ばれるイヴリー・ギトリス。その演奏はまさに血の通った生きた演奏です。Wizardの名にふさわしく、聴くものを瞬時に彼の世界にひき込みます。テンポといい、音程といい、癖の強いユニークなヴァイオリニストですが、その演奏を聴いていると、楽器という媒介が消えて、演奏者・曲が一体となって、その心臓の鼓動がそのまま伝わってくるようです。
ギトリスの自伝『魂と弦』によれば、彼の両親は共にウクライナ(当時はロシア領)のイディッシュの家庭に生まれたとのこと。革命の混乱から逃れる為か、両親はルーマニアに逃れ、そこで二年を過ごした後に、イギリス統治下のイスラエルに渡ります。ギトリスが生まれたのは1922年、ところはイスラエルのハイファでした。
5歳の時にヴァイオリンを買い与えられ、翌年にはヴェリコフスキー夫人という音楽教師にレッスンを受け始めます。彼女はアドルフ・ブッシュに師事したこともある由。数年後にエルサレムに引っ越ししますが、そこではシゲティの弟子であったベン=アミ夫人を師としました。ギトリス自身、ベン=アミ夫人を「私の最初のほんとうの先生」と懐古しています。幼いギトリスがブロニスラフ・フーベルマンの前で演奏したのもこの頃。その場にはエリカ・モリーニなども居合わせたそうです。
フーベルマンはギトリスに欧州留学を勧め、その為の基金を募り、事実パリのコンセルヴァトアールに入学したのは13歳の時。入学試験の成績は一等で、ジュール・ブシェリという先生につきました。しかし、学校生活はあまり楽しくなかったようで、周りの生徒は二十歳を超えていて話は合わず、ギトリス自身も学校教育にそぐわない性格だったようです。二年ほどで学校を去りますが、退学の前後から、ジョルジュ・エネスコの元に通い始めています。
10代後半のギトリスは、エネスコの他にも、カール・フレッシュ、ジャック・ティボーと、名ヴァイオリニスト・名教師に師事。1940年には、マックス・ロスタルにも紹介されましたが、「三回のレッスンの後、お互いに対して何もすることがないことがどちらにもわかった」と回想しています(『魂と弦』p.114)。
第二次大戦が始り、ロンドンに住まいを移したギトリスは、講演旅行とさらなる研鑽に日々を過ごしますが、本格的キャリアが始ったのは1951年のロン=ティボー・コンクールに参加してからのこと。結果は五位に終わりましたが、聴衆が不満のあまり騒ぎを起こし、機敏な興行師の関心を引き、大会数週間後の本格的なデビュー・リサイタルへとつながりました。数年後にはPathé-Vox社と契約し、初録音。そのベルグのヴァイオリン協奏曲はGrand Prix du Disqueを受賞しています。
その後のギトリスの活躍は皆の知るところでしょう。世界中に公演旅行を行い、来日回数も多数。クラシック音楽の垣根を越えて、さまざまなジャンルの音楽家とセッションを組んだり、TVで音楽番組を受け持ったりと実に多彩です。1963年には当時のソ連で演奏した始めてのイスラエル人演奏家ともなり、70年代には自ら音楽祭もはじめています。映画に端役で出演することもあって、例えば、フランソワ・トリュフォー監督の『アデルの恋の物語』、最近ではジークフリート監督『サンサーラ』が挙げられます。
教育活動にもたずさわり、ストラスブールでモーツァルテウム国際アカデミーの講座を受け持ったり、また、各地で多くのマスターコースを開催しています。
いまだ現役のヴァイオリニストとして活躍して居るギトリス。さすがに躯の衰えには勝てず、音程を取るのも難しい状態。しかし、聴衆はそれも判った上で、ギトリスの人柄を楽しみに足を運ぶのでしょう。録音もまだまだ続けたいとの意欲を持っているそうですが、近年のリリースで最大の関心と言えば、30年の月日を経て2007年漸く一般発売されたパガニーニの《24のカプリッチョ》が挙げられます。
その解説書に寄せたメッセージが実にギトリスらしく熱いもの。「どんな機械にだって君のような演奏などできないことを忘れるな」と訴えます。そのメッセージから一部引用して本文の締めくくりと致します。
新世代の若き同僚達よ、君たちには、自分自身に成る勇気を持ち、リスクを進んで背負い、自分のまたは他人の録音のコピーになど成り下がらないよう、是非ともお願いしたい。心理的・技術的な制約から脱する為、そして、演奏に於いて創造を成し遂げる為に、努めて楽器に習熟されんことを。君の内なる声に耳を澄ますこと。それは直接に君の心、君の魂につながっている。君が感じていることを伝えるものこそ、君自身なのだ!そう感じないものならば君ではない。覚えていてほしい。クライスラー、ティボー、カザルス、またはカラスらが奏で、歌った「間違っていて」しかも美しい音が、千もの「正しい」音より価値があることを。そして、衛生的に正しい、病院の治療のように正しい演奏が、必ずしも健康の印とは言い難いことを!
全文はぜひそのCDでお確かめください。
ギトリスのCDで現在手に入りやすいものは決して多くはありません。そんな中から、ギトリスと言えばのパガニーニ、チャイコフスキー、メンデルスゾーン、シベリウス、バルトーク、ブルッフの協奏曲を集めたVoxの2枚組セット、そして、癖があるけれども忘れ難い小曲集を選んでみました。他にアルゲリッチと共演したヴァイオリン・ソナタなど面白い録音は沢山あるので、Look4Wieck.comの検索頁をぜひご活用ください!
デビュー録音のベルクのヴァイオリン協奏曲はAmazon.co.jpでも取り扱いがありますが、Amazon.frなら入手が安易かつ安価なことが多いようです。
下に挙げた諸作品から「最初の一枚」と絞って選ぶのは難しい選択ですが、やはり漸く一般発売されたパガニーニの《24のカプリッチョ》CD、または、モンサンジョン製作のDVD『アート・オブ・ヴァイオリン』のどちらかをお薦めしたいと思います。
前者は多少の調子はずれもなにもこんなに活き活きとした演奏そのものが希有のもの。冒頭から音が飛んでくるような勢いに圧倒されます。後者はギトリスがコメンテーターとしても出演していて、真面目なコメントは勿論、ミッシャ・エルマンやフランチェスカッティの口まね、弾きまねがおかしくてしょうがないエンターテナーの側面もよく現れた傑作です!
ヴァイオリニスト Arabella Steinbacher websiteのAbout me:
ギトリスに師事したArabella Steinbacherさんというドイツの女性ヴァイオリニストのwebsiteです。この中のAbout meと題されたインタビュー記事の冒頭にギトリスの話が出てきますが、これが長さは短いものですが、いかにもギトリスらしい!と印象的な話。ギトリスに紹介されて緊張気味の彼女に、一体なんと話しかけたか???ぜひ皆様でお確かめください!
www.carnegiesmall.org内、ギトリスの頁:
ギトリスの近年のマスタークラスなどの情報、映像もあり!
Andrys.comの「ギトリスに聞く − Martha is a survival」:
2001年のインタヴューのようで室内楽のパートナーとして舞台に上がることの多かったマルタ・アルゲリッチについて、ギトリスにインタビューしています。当然、アルゲリッチに関する内容を答えているのですが、その端々からギトリスの価値観・人柄が伝わってくるもので、興味深い内容です。
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