キャンセル魔で有名なカルロス・クライバーは、そもそもの公演回数が少なければ、録音も毛嫌い。しかし、ひとたび舞台に上がれば、踊るような指揮ぶりで数多の名演を生みました。
ドイツ・オーストリアの伝統を唯一継ぐ者と期待され、カラヤン辞任後のベルリン・フィルハーモニーのポストを打診されながらも、その椅子を蹴ったという話もあります。
カルロス・クライバーは、1930年ベルリン生まれ。父親はオーストリア出身の名指揮者エーリッヒ・クライバー。エーリッヒはナチスと衝突したため、一家を連れてアルゼンチンに亡命。カルロスもアルゼンチンで成長することになりました。
エーリッヒは息子が音楽家になることに、表向きは反対だったようです。しかし、息子の方では指揮者への興味が日々増します。戦後に化学を修めようとスイスのチューリッヒに留学したものの、その機会を利用して、小劇場の見習い指揮者として一から研鑽の日々に。そして、1954年には東ドイツのポツダムにて指揮者としてデビュー。この際、父親の名声を傷つけないように、仮名を使ったとのこと。
その後、デュッセルドルフ、チューリヒ、シュトゥットガルトと数年ずつ渡り歩く内に、次第にその名声は高まり、1968年からはついにバイエルン国立歌劇場のポストを得ます。1973年にはヴィーン、1974年にはバイロイトの指揮台に初めて立ち、《トリスタンとイゾルデ》を振って大評判に。
その後は、常任のポストにつくことをこばみながらも、世界各地の舞台に立っては観客を魅了。但し、晩年になればなるほど公演の数を限られていきました。
その正規録音は名声に比して少ないものですが、そもそも、レパートリー自体をかなり絞っておりました。完璧主義のせいとも、自分の好みの曲しか振らない方針だったからとも言われます。映像に残る華麗な指揮ぶりを見ての印象とは異なりますが、一般的な指揮者よりも多くリハーサル回数を取り、父親から譲り受けたといわれる楽譜をもとに、緻密な指示を出して、音楽を作りこんで行ったそうです。楽団員に配られた楽譜には、びっしりと注釈が書いてあったと言われています。
彼の才能を大変賞賛していたロシアのピアニスト スヴャトスラフ・リヒテルが共演時の印象を伝えておりますが、クライバーは、自分の指揮がうまくいっているのかどうかと終始不安げだったそうです。クライバーの心の内は、見た目の華やかさとは違うものだったと知れるエピソードです。
カルロス・クライバーの音楽は、なんといっても、その艶・麗しさ・活き活きとした様でしょうか?過度に深刻になることもなければ、軽々しくなることもありません。ある種の純粋さ、無邪気さがあると思いますが、じっくり聴くと、さまざまに一般とは変わった楽器の響かせ方が聞こえて来て、素人耳にも入念な研究の跡が伺えます。
録音は決して多くはありませんが、どれも世評は大変高いもの! 個人的には、跳ねるようなベートーヴェンの交響曲と『ばらの騎士』が一番の好みです。
独グラモフォンの紹介頁:
独グラモフォンの頁は、一番公式な情報と言えるでしょうか?経歴と自社から発売されているカルロス・クライバーの録音について、短くまとまりよく紹介しています。
米紙ワシントン・ポストの追悼記事:
比較的詳細な経歴と共にさまざな伝聞 ― 名テノール プラシド・ドミンゴの賛嘆の言葉や、キャンセル魔の事例、表現力ゆたかでユニークな指示等々 ― が興味深いものです。
エーリッヒ & カルロス・クライバー ページ:
文字通りエーリッヒ & カルロス・クライバー親子の頁。次から次へと販売される発掘音源情報など、ファンにはありがたい内容です。
BROGCRITICS Magazine - “The conductor who could not tolerate error”:
こちらも経歴とその音楽観が比較的簡単にまとまっていて読みやすいもの。カルロス・クライバーとは、練習の際にちょっと出会った程度で知り合いではないとしながら、ちょっと面白い思い出話が紹介されています。「父親(エーリッヒ)が言っていたことだけれど、なんでも好きなものをやれ、でもワルツはやめておけと。あれは一番難しいからから、とね」― クライバーがそう語っていたそうです。
La Scena Musicale - Not a great conductor:
タイトルは「偉大な指揮者ではなくして」と一見否定的に読めますが、クライバーの完璧主義についての記事であり、才能に見合うほど、公演も録音もこなせば良かったのに、まことに残念・・・という内容です。緻密なリハーサル、レパートリーには、父エーリッヒの影響があると指摘しています。